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望三郎の地球宿づくり日記
信州安曇野で農的生活をしながらコミュニティ宿をやっている宿主望三郎の
宿づくりや夢の実現に向けて奮闘する様子を日記スタイルで紹介します。

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2004. 9. 26. Sun はざがけ
2004. 9. 19. Sun 夏の白馬
2004. 9. 18. Sat 風ちゃん、3歳の誕生日
2004. 9. 17. Fri Toshiのホームコンサート
2004. 9. 12. Sun 常念岳登山!
2004. 9. 05. Sun 山葵農家のMさん
2004. 9. 03. Fri 津村孝夫という男
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  2004. 9. 3. Fri
      津村孝夫という男
  
 安曇野の三郷村小倉地域。ここに、松村暁生以外にもう一人紹介したい農業青年がいる。津村孝夫。彼とも20歳の頃に出会ったので、かれこれ15年の付き合いになる。 
 孝夫の経歴は面白い。20代の10年間、食肉用の鶏の飼育をし、毎朝3時過ぎに起きて放血(鶏をお肉に加工するための最初の作業で、首を切って血を抜く)をやってきた。その手は包丁傷だらけで逞しい。その後アフリカのザンビアに青年海外協力隊員として派遣され、2年の任期を終えて帰国。日本のどこかに根を下ろして農業をやろうと思い、その場所として安曇野を選び移り住んできた。 
 彼の住んでいる場所も、三郷村では一番山に近い小倉エリアの中でも、最も標高が高いところにある一軒家。家の前庭からは安曇平が見渡せ、裏側はもう山で、ちょっと歩いていけば熊にでも出くわしてしまいそうなところだ。周りに民家もないので、援農など人が集まった時は、孝夫の家とその前庭が会場となり、賑やかに過ごせる。家には網戸も無く、夏など窓を開けると虫が入ってくるが、昆虫博士の彼は意に介さない。 
 まだ単身のせいもあって、ここにはおぐらやま農場の研修生の山口くんが5月よりずっと居候している。また援農に来た若者たちが、もうちょっと農業をやってみたいと、企画後も残って滞在していたり、他にも他地域から農業をやりにくる人がいたりと、この家も絶えず人の出入りがある。仲間内では『津村農業研修道場』などと言ったりしている。 
 
 この津村くん、志も実践力も並大抵ではない。だが、いかんせんまだ新規就農1年目。農業経営の基盤もなにもあったもんじゃない。まだまだこれからなのだ。 
 「畑の加工用トマトがこの夏出荷できて、初めて収入が入ってきたんだ。」と孝夫は笑う。悦子は出荷できないトマトをもらって来ては、トマトピューレにして、トマトのリゾットやパスタを作り、そのトマト料理を孝夫にも食べてもらいたくて、我が家で一緒に食事をしたりもする。 
  
 津村孝夫、33歳。志高く、心優しき農業青年。独身、嫁さん募集中。 
 津村孝夫のホームページ
  

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  2004. 9. 5. Sun
      山葵農家のMさん
  
 8月の終わりに『カントリーイン増田家』に来てくれた湘南のKさんのお友達で、安曇野で山葵農家をやっているMさんから、「山葵畑の草引きに来てくれないか?」と声がかかった。石油会社に勤め海外駐在までしていたエリートサラリーマンを辞めて、家業を継いだMさんともっと仲良くなりたくて、僕は二つ返事で出かけていった。 
 
 安曇野は水のきれいな場所として知られ、北アルプスを源とする湧水もあちらこちらにある。山葵は水がきれいでないと育たないと言われるが、穂高川、高瀬川、万水川といくつかの川が集まってくる安曇野の穂高エリアは日本でも有数の山葵の産地だ。有名なところでは大王わさび農場があり、観光客も多い。 
 観光名所の大王わさび農場が露地栽培なのに対して、Mさんのような個人経営の山葵農家のほとんどがハウス施設での栽培をしている。我が家にゲストが来た時は、大きな大王わさび農場に連れて行っていて、山葵=大王わさび農場と思っていたので、ハウスでの栽培が一般農家ではスタンダードなやり方であることにちょっと驚く。水の流れる高さに合せてハウスを作っているので、車で走っていると道路より低いところに山葵の白いハウスがたくさん見える。以前から見ていたが、これは山葵栽培のものだったのだ。 
 
 長靴でハウス内の山葵畑の中に入る。きれいに畝が作られていて、そこに山葵が植えられている。畝の間を透明な色の水が流れている。いつもながら思うが、こんな砂利のようなところでよく育つなあと思う。水の栄養分と地中の栄養分を存分に吸収するのだろうか。 
 「田んぼに水が張られている秋までは、田から沁み込む水のせいで水量が多いんだけど、冬になると水量が減るんだよ。水量が少ないと生育も悪いんだよね。」Mさんが休憩の時のおしゃべりで説明してくれる。まさに「きれいな水」が生命線なのだ。 
  
 ほのかな山葵の匂いを感じながら草を引いていく。水はまだ冷たすぎない。時折、山葵の葉っぱからカエルがぴょんと跳ねる。トタン屋根を打つ雨音がBGMだ。3時間ほど集中して作業をした。バイト代とお土産に山葵を頂いた。
  

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  2004. 9. 12. Sun
      常念岳登山!
  
 安曇野でずっとやりたかったことの一つ。北アルプス登山が半年経って実現した。山登りは小学生と中学生の時に1回づつ、大分の由布山に登ったことがあるだけ。ど素人で年齢も30過ぎて大丈夫かしらん?とちょっと不安もあったので、山好きの孝夫にパートナーをお願いした。 
 朝4時に家を出て、5時過ぎに登山口に着き、薄っすらと明け始めた中、登り始めた。ちなみにデビュー戦に選んだ山は常念岳。安曇野のシンボル的存在だ。毎朝駅で電車を待つ際、振り返ると北アルプスの山々が見え、その一番高い山が常念岳だ。それを眺めながら、山登りしてみたいな〜という思いと、あんな遠く高いところまでどうやって登るんじゃい?と思っていた。その山につい登るのだ。 
 
 山道は思った以上に険しかった。多くの登山者が歩いていて、道筋はしっかりついているものの、大きな石が転がる道や沢のように水が流れている道、手でしっかり掴まらないと登れないような道など、かなり大変だ。それでも道程は変化に富んでいて楽しい。遠くに沢の水音を聞きながら、その沢が時々眼前に現れ、そこでしばしの休憩を取る。横たわって道を塞いでいる大木をよじ登ったりもする。名も知らない花が咲いて、緑の中に黄色や青色が混じる。そして孝夫と前後になって、いろんな話しながら歩いていく。 
 
 2時間ぐらい歩いてからだろうか、下山してくる人たちとすれ違い始める。 
 「こんにちわ。」「もう少しだよ。今日は晴れ渡っていて、素晴らしいパノラマだったわよ。」と励ましてくれる。同じ一本の道を登り下りし、その一時の出会いに声を掛け合う。山登りの素敵なところだ。 
 「わあ〜早いね。何時から登り始めたの?」とすれ違う何人もの人たちに言われた。どうも僕ら2人組はかなりのペースだったらしい。ガイドでは登山口から常念の山小屋まで4.5時間と書いてあるが、3時間程で着いてしまった。 
  
 常念岳の頂上の7合目ぐらいだろうか、山小屋がある。宿泊施設だけでなくテントスペースもある。孝夫に聞くと、北アルプスの山々の各所に同じような山小屋があるという。遠くから北アルプスを目指して来る人たちは、僕らのような日帰りではなく、山小屋を拠点にして、山から山へと何日かかけて歩いていくのが、どうやらスタイルらしかった。山から山へと尾根づたいを渡り歩いていくことを「縦走」ということも今日初めて知った。「縦走」。なんとも魅惑的な言葉だ。いつかは僕もやってみるかな。 
 
 山小屋のあるところからさらに山頂を目指して登る。途中振り返ると、見下ろしたところにある小屋のあたりがまたたく間に白く、もやってきた。こうやって雲ができるんだ。自分の目線よりも真下で雲ができていくのを初めて体験した。 
 小屋からは山頂までは植生限界なのだろうか、岩だらけだ。岩場をよじ登るようにして、ようやく山頂に着いた。標高2857m。よくもここまで登ってきた。自分を誉めてやりたいね。 
 山頂からの眺めは素晴らしかった。残念ながら、松本・安曇平方面は曇ってしまったが、西側は晴れ渡っていた。尖がっている山が槍岳。そうか、名前だけは知ってたけど、あれのことか。そして穂高連峰が連なる。あっちがこの前行った上高地になるんだな。 
 
 家に帰ってから、地図とガイドブックを広げてみた。今日登った常念岳はここか。登るまでは茫漠と北アルプスとしか捉えていなかったのだが、位置関係が分かってくる。今度登るのは蝶ヶ岳かな。山小屋に泊まって縦走なんてのもしてみたいな。 
 新聞を読んでいたら、森村誠一の「エンドレスピーク」という本のことが書かれていた。太平洋戦争突入直前の国境を越えた若者たちの友情と生き様がテーマのようだ。読んでみたい。その舞台は槍ヶ岳だ。う〜ん、槍ヶ岳に登ってみたくなってしまった。
  

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  2004. 9. 17. Fri
      Toshiのホームコンサート
  
 元X-JAPANのToshiのホームコンサートが、僕の住む三郷村小倉地区で行われた。過去に彼のホームコンサートに参加したことのある暁生が企画して、三沢さんという農家の農業倉庫の2階を片付けて、急ごしらえの簡単なステージで40人ほどの人たちが集まった。 
 X-JAPANがメジャーだった頃、僕は既にこの手のハードロックを聞かなくなっていて、Toshiのことはよく知らなかった。ただ、「頂点に登りつめれば幸せになれると思っていたが、そこには何もなかった。」と解散後にToshiがテレビで語っていた時の誠実で真摯な印象を覚えていて、関心を持ってコンサートに行ってみた。 
 
 感想。癒しのコンサート、と題されているだけあって、確かに静かにゆったりとした心持にさせてくれるコンサートではあった。Toshiのヴォーカルも力強くきれいで素晴らしい。しかし、「素であろう」「頑張らなくていいんだ。」「何にもならなくていいんだ。」と、自分らしくあることを歌を通して伝え続けている、肝心のToshiさんの生身の声が聞こえてこない。彼自身の生身の言葉が歌われている感じがしなかった。彼に大いに影響を与えているMasayaというプロデューサーの世界の代弁者に徹しているからなのだろうか。彼ほどのヴォーカルと音楽センスを持ち合わせているのなら、もっと自分の世界を表現してもいい。彼の心の歌を聴きたい。それが僕の感想だった。
  

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  2004. 9. 18. Sat
      風ちゃん、3歳の誕生日
  
 昨日9月17日は風ちゃんの3歳の誕生日。一日遅れたけど、今日は千葉我孫子から大好きなジイジとバアバとさっちゃん(悦子の妹)がやってきて、一緒に誕生日を祝った。実はジイジ(悦子の親父さん)も風と誕生日が同じ。親父さんは62歳になる。例のごとく新潟経由でイカや秋刀魚やらの新鮮な魚を市場で買ってきてくれて、親父さんと一杯やった。 
 
 風ちゃんが我孫子の病院の分娩台で生まれて丸3年たったよ。風ちゃんが生まれる頃、お父さんは仕事をしてなくて、風ちゃんが生まれる前に、もう一回り大きくなりたいと、お母さんにも頼んで一人旅に出たんだよ。2週間ぐらいかけて北海道からヒッチハイクで千葉の悦子のところに向かって、その途中で素敵な景色を見たり、たくさんの人と出会っていろんなことを話したんだ。青森で乗せてもらったトラックの運ちゃんの植村さんとは今もやり取りが続いている。今日も岩手三陸沖の秋刀魚をたくさん送ってきてくれたよ。美味しかったね。風ちゃんも魚を食べれるようになったね。 
 予定日が1週間を過ぎても生まれないで、いつ生まれてくるんだろう?と悦子と笑って話しながら夜のテレビを布団の中で見ていると、飛行機がビルに突っ込む衝撃の映像。一気に世界が不安になったんだよ。そんな世界情勢も反映して、一事は名前は「永和(とわ)」になりかけた。それでも初志貫徹して、「風(ふう)」にしたんだよ。「海を越え、山を越え、国境を越え、世界中を風のように駆け抜けてほしい。」そんな親の(正確に言うとお父さんの)願いが込められた名前なんだよ。 
 
 風ちゃんが病気らしい病気をした記憶がない。高い熱が出たのも2回ぐらいだと思う。初めての高熱は、サッカーW杯のメキシコのハビエル夫妻たちがやってきていて、狭いアパートにみんなで暮らしていた時だったね。悦子の心配な様子の方が心に残ってるよ。風ちゃんが熱で苦しんでいるのを見るのは本当に辛かったよ。 
 風ちゃんはまだ赤ん坊の時から、話し出す前から、なんだかちょっとお調子者というか、とっても明るかったんだよね。しゃべり出すとどうなるかな、なんて思ってたけど、やっぱり明るくお調子者。保育園でも『ひょうきんものの風ちゃん』だもんね。 
 
 我が家にはいつもいつもいろんな人がやって来るから、いろんな人に遊んでもらえていいね。将来は親父お袋には話せないようなことも、知り合いのおじさんおばさんには話せるかな。お父さんとお母さんの友達にはいろんな人がいて、いろんな仕事をやっている人がいる。そんな人たちのところを大きくなったら訪ねてみて、いろんな世界を知ったらいい。そして、その中から、本当に自分のやりたいことを見つけていったらいい。もちろん、お父さんもそのいろんな人の中の一人として、風ちゃんに生き様を見せられるような人間にもっともっと成長していかなくっちゃね。 
 これからもその明るい笑顔で元気に育っていってね。風ちゃん、お姉ちゃんになるんだよ。
  

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  2004. 9. 19. Sun
      夏の白馬
  
 連休中に遊びに来ているかみさんの両親たちと一緒に白馬に行ってきた。信州魅力探訪シリーズ、今回は白馬にある長野オリンピックの時に舞台になったジャンプ台に行ってみたかった。(今年はオリンピックイヤーだったし。) 
  
 車で走っていると北アルプスの山々がどんどん近くに見えてきて、その麓にジャンプ台のラージヒルとノーマルヒルの滑走路が見える。リフトとエレベーターを乗り継いで、スキーヤーがスタートするジャンプ台の一番高いところまで行ける。そこから下方を眺めてみるのだが、かなりの急斜面だ。怖いなあ。こんなところを滑り降りて、そしてジャンプするのか。まさに大空に向かってジャンプするような感覚なのじゃないだろうか。冬になったら、ここで大会が行われるだろうから、その時に実際に飛ぶところを見てみたいな。 
 
 白馬の山々は夏のせいもあって、連なる山々の山肌があらわになっていた。それらは全部スキー場だ。雪のない夏に見ると、なんだか哀れな感じだ。それでも冬になって雪をかぶるとこの山々の景色は素晴らしいんだろうなあ。この冬はスキーをしに白馬にまた来ようかな。 
  

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  2004. 9. 26. Sun
      はざがけ
  
 津村孝夫君が「稲刈りをするので、よかったらおいでよ。」と声をかけてくれたので、風を連れて行ってきた。 
 今、安曇野では稲刈りがあちらこちらで行われている。黄金色の稲穂が立ち並んでいたところが、いつの間にやらすっきりとし、刈られた後の田には、稲藁がはざがけがされている。 
 コンバインなら稲刈りをして、脱穀までし、藁を刻んで田に撒くところまで、何から何までやってしまうが、ここらの地域でははざがけと言って、刈り取った稲を、木の棒で作った竿に逆さまにして天日干しにするという昔ながらのやり方があちこちで見られる。 
 バインダーを押して刈り取っていくと、その後に結束された稲藁がきれいに並べられていく。木の棒を土中に打ち込み、竿台を作る。そして、そこに稲藁を運びかけていく。それなりに手間のかかる作業だ。米の専業農家だとそんなことやってられずに機械でやってしまうだろうから、はざがけをしているところは、小さな規模の農家なのだろうか。そう言えば、小さな子どもも一緒になってはざがけしているファミリーの姿を見かけたなあ。 
 この昔ながらのはざがけの景観、安曇野にきて初めて見たわけではなかったが、それでもこれまではあまり気にも留めていなかった。しかし、田園地帯の安曇野に暮らすようになり、自分の親しい友達が米を作ったりしていると、こうやって自分もちょっとの時間でも一緒になって作業をしたりすることになるわけだ。 
 孝夫も初めてやったらしいが、数日前に知人農家の稲刈りの手伝いに行ってきて、はざがけの仕方を習ってきたと言う。その孝夫が、「今週末の援農で稲刈りをするから、望君もはざがけのやりかたを覚えておいて、来た学生たちに教えてあげてよ。」と言う。「おお、そうかい。」そういうことなら、と僕も慌てて身を入れる。ただかぶせるだけでなく、しっかり稲の束同士をかませて崩れないようにする。はざがけの列が少しづつできていく。 
 用事があったので、ちょっとの時間の体験に終わった。今週末金曜からは秋の援農が始まり、稲刈りを行う。
  

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